第一章 書とデザイン
書は芸術か?そんなことが長年に亘り議論され続けている。 この議論の先駆けとなったのは、1882年に小山正太郎と岡倉天心の間で繰り広げられた「書ハ美術ナラズ」論争であろう。内容は割愛させていただくが、結論は未だに出ていない。私自身、どちらの論も一理あると思っている。しかしながら、どちらか一方への主張を強く支持するつもりもない。確かに、私が大学で書を専門に勉強しようと進学先を探していたとき、芸術の東大と称される東京芸術大学には、なぜか専門の書道科が設置されていないことに疑問を抱いたことがあった。「書は芸術と認められていないのか?」当時、そんなことを思っていた。
さて、ここで私の「書の立場」についての考えを管見ながら少しお話ししたい。結論から述べれば、書は芸術であるというよりは、職人的・意匠的、とどのつまり、「デザイン」なのではないだろうかと思う。
書が扱う文字という素材の歴史は、元来、言葉以外の間接的なコミニュケーションツールとして発展してきた。これは大変画期的なことである一方、言葉という音を介したコミニュケーションツールは、現在という時間を共有しなくてはならない「点」としての行為だ。文字の発明によって情報がビジュアライズされ、現在・過去・未来を結んだり、当事者ではない第三者とのコミニュケーションを可能にするといった「線」としての機能を持つようになった。
当初、記号的で数の少なかった文字は、(漢字に限定すれば)次第に六書(象形・指事・形声・会意・転注・仮借)としてシステマティックに体系付けられ、書体も時代的背景を反映させながら、利便性や機能性を追求し、再構築を繰り返していく。しかも、ある一部の層にしか理解できない高度な技術ではなく、ある一定の教育を受けさえすれば老若男女を問わず、理解することができる。つまりUD(Universal Design)としての優れたデザイン性を兼ね備えている。これは、現在の私たちが行っている「デザイン」によく似ている。
デザインの概念を説明することは、極めて難しいことであるが、敢えてここで、「思考や概念を組み立て、ある目的をもって機能的に作用しながら、ある問題解決を行う行為」だと定義すれば、まさに文字はデザインそのものであると言える。このデザインされた文字を素材にする「書」作品は、すでにデザインされたもの(文字造形)をその空間、シチュエーション、スケール、対象などに応じて、より魅力的に文字やその文章を再構築したに過ぎない行為であるといっても過言ではあるまい。
しかしながら、長年に亘る修練の結果から生じる、到底俗人には到達しうることのできない一本の書線にせよ、それを可能にする巧みな技、筆さばき等の一連の動作・所作そのものにせよ、道を追求するという高い精神性にせよ、その「人間」自体が芸術(的)に昇華するものであると信じている。